詩集『悲の舞』へいただいた感想                         2018.11.27現在

    
■岡野絵里子さん
思いもかけない斬新・詩的な発想に魅了される御作ばかりで、つい楽しんでしまいました。その後で意味の深さに
気づき、それから感動がやって来ました。最も惹かれたのは「ありふれた朝」ですが、「ギアの秘めごと」も大好き
です。密かなギアの働きがけなげ――また人が夢の中で送る人生(毎夜かなりの時間を使っていますし)も現代人
の重要なテーマになり得ると教えられました。どうぞますますのご健筆を。これからも名作をお待ちしています。

■青木由弥子
三田洋「悲の舞」あるいはギアの秘めごと
生成りの砂地のような地に、細胞の顕微鏡写真を淡い黄色の版で押したようなカバー。丁寧に織り込まれたカバ
ーをそっとめくると、目の覚めるような青の本体が現れる。生命は海に還る、その暗示だろうか。詩集本体を形作
むる一葉一葉が、詩集扉のような厚地で編まれていて、触れているとしっかりとした手応えが伝わってくる。
冒頭の「悲の舞」は

悲は斜めうしろから
すくうのがよい
真正面からでは
身がまえられてしまう
悲は日常の爪先ではなく
白すぎる紙の指で
呼吸をほどこすように
すくうのがよい

と始まる。すくう、これは「掬う」であろうけれども・・・たとえば阿弥陀如来の手で「すくう」ならば、「救う」でもあるの
かもしれない。わたし、の悲しみを「すくう」のか。もっと大きな、たくさんの人の「悲」にまで、想いは広げられてい
るのか。
日常的な次元ではなく、紙に静かに言葉をつづることによって、〈悲〉を捕えたり追い払ったりするのではなく、そっ
と手のひらに乗せるように受け入れよ、そう歌われているような気がする。続く詩行を引用する。

太古から伝わる悲の器のように
やさしく抱えこみながら
静かな指のかたちで
すくってもすくってもこぼれてしまうけれど
傷ついたいのちのすきまを
ていねいにふさぐよう
だれもいない奥の間の
ひっそり開かれる戸から
陽がさしてくればなおよい

悲(Hi)が、〈ひっそり開かれる〉戸から漏れる〈陽〉となるとき。

 そのとき
 悲はひかりの粒子にくるまれて
 必然のつれあいのように
 すくいのみちをめざしながら
 秘奥の悲の舞を
 ひそかに演じるのでしょうか
 だれもいない開演前の舞台のように

〈だれもいない〉舞台を見ているのは、末期の眼であり、既に他界した者のまなざしであると同時に、未生の舞台
をまなざす者の眼でもあろう。
 生きてここに在る肉体が、死後の、あるいは未生の世を夢想し、その地点からいずれ訪れる〈すくい〉の時を歌
っているともいえる。
繰り返される悲の響きが、静かな変容を遂げる。悲がすくいとられ、紙の上で文字となり言葉となり、傷を負った
〈いのちのすきま〉をさらさらと埋めていく。一人の命、一個の命ではなく、たくさんの〈いのち〉の間に生まれた空
無を埋めていくのだ。それは、個々の内に閉ざされた悲しみを、〈いのち〉たちが共有し、共に〈陽〉に変容した〈悲〉
にくるまれる、という〈すくい〉への願いではあるまいか。その時初めて、傷ついた個々の命は、悲のふるまいを
〈悲の舞〉として、客観視し、受け入れることができるのかもしれない。
「振り向き方に」や「歳月の窓」で歌われる、何者とも知れないが、はるかな場所から〈見ている〉〈覗いてくる〉視
線は、〈籠の鳥を亡くしたり近しいひとや/母親のからだを焼いたりすると〉いっそう強くなる、という。近しい人、で
いったん区切り、呼吸を整えて〈母親の〉と語りだす間合い、そして、母親を、ではなく、〈からだを〉と限定するとこ
ろに、母の魂の永遠を信じる心が記されているように思う。からだから解放されて、魂は天に還ったことだろう。そ
して、多くの死者たちの魂と共に、はるかな場所から生きる者たちを見守る視線、大きな〈いのち〉へと溶け込んで
いく。「悲の舞」は、地上にある肉体が、夢想の力で〈いのち〉の側から、孤/個として存在する命を見たときの舞
なのかもしれない。
全編を通読して、柳澤桂子が過酷な体験を通じて辿り着き、生命科学や素粒子物理学の概念を用いながら"現代語
"に訳し直した「般若心経」の響きを感じた。三田の描く詩(うた)が、悟りを説こうとしている、ということではない。実
存する自己の在り方、その肌感覚を、どのように言葉で言い表そうか、と逡巡した末に、「中性子のかなしみ」や「数
字のお願い」のような物理的な用語を選んだ過程に、伝えるとはなにか、と真摯に問う心の同質性を感じのかもしれ
ない。
夢と覚醒時との切り替えがうまくいったときの気配、〈失敗した〉ときの感覚を心の耳で聴きとってしまった際の微
妙な感覚を、"ギアチェンジ"の成功、失敗になぞらえて綴る「ギアの秘めごと」もユニーク。ギア、という人名の物
語を予感したが、肉体をユーモラスに客観視する姿勢と、微細なずれや違和感を感じ取る繊細さが見出した卓抜
な表現である。覚醒していながら白昼夢を見てしまうような、夢幻の世界から抜けきらない、現実世界での曖昧な
感覚の居心地悪さ。ピタリと覚醒した時の爽やかさ。〈迷いしくじり途方にくれて/目覚める〉時の方が、人生には
多いのかもしれないが、そんな自身を〈ギアの音のいとしさ〉も含めて受け入れようとする姿勢が快い。

今まで、詩を"うたう"と記してきた。行分け詩のリズムや呼吸に、歌うような調べをかすかに感じるからだが、"う
た"に乗せていくことのできなかったエピソードが「相克の崖」という散文詩に綴られているように思う。〈歳月のな
かで体験と夢想との境界があいまいになるらしい。〉いわば、ギアチェンジがうまくいかなかったときに蘇る悪夢
のような体験。まだ若かった語り手が、父を自死で失った友人の、あそこから見ると海がきれいだよ、という誘い
に応じて、崖の中腹に腰を下ろして海を見下ろす。〈彼の境遇にそってあげたかった〉ゆえの実話なのか、〈彼の
境遇〉を思うあまりに幻想が作り上げた恐怖であるのか。歳月が経つにつれて〈あの時わたしは実は海へ落下し
ていたのではないかという懸念が消えない・・・いつからか落下したじぶんと落下しなかったじぶんとが相克を続
けるようになっていた〉ここまでくると、夢想も現実も境界は無いに等しい。友人の体験への感情移入が、いつし
か自己の体験に成り代わる。(私事になるが、従妹が自死した、という知らせを受けた後に、宇宙空間で、果て
しなく落下していく夢を何度となく観たことがあるが、その時のことを思い出した。)
最後に置かれた「夜の椅子」は、

離別した朝の気配の
亡くした母の春の海の
救えなかった子の
暑い夏のおわりの
声のふるえる箸のはこびかたの
雨にぬれる指のかたちの
そんなひかりのような断片を
何度となく
繰り広げてみせる

と、とりわけ調べを強調した形で始まる。冒頭の〈すくい〉や〈ひかり〉、そして、悲を陽に変えてすくいあげる、は
るかな場所から差し伸べられる指の気配と、この世に生きて指先を濡らす人の気配とが重なっていく。その〈ひか
りの断片〉いわば、美しい記憶のかけらが現れるのを、詩人は夜の椅子に腰かけて"観て"いる。

 ときには
 遠い祖先の苦渋の痕跡があらわれたりして
 おもわず感謝しながら
 きょうも
 夜の椅子に腰をおろしている

現実と夢想との境界が限りなく曖昧になる時間、はるかな場所から差し入る〈ひかり〉としての記憶の訪れに身
をゆだねる詩人。いつかそこに自身も加わり、またこの世を振り返るという安堵も重なっているように思う。読み
終えて、静かな安らぎを感じる詩集だった。

■北川朱実さん 
 新詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』発行、おめでとうございます!
遅くなりましたが、本日読了しました。
読み終えて、あらためて三田さんの発想の「あたらしさ、ユニークさ」を感じています。
いくつかの作品は、「この場所」や「朝明」で読ませていただいたのですが、こうして一冊になると、いっそうその
良さが伝わります。
 好きな作品はいくつもあります。「ギアの秘めごと」(夢と覚醒時との/二つのじぶんを感じながら/街へ出ると)、
「中性子のかなしみ」の出だしの連のすばらしさ。「振り向き方に」も、一連目から引き込まれます。「方向音痴夢
枕」大方向音痴の私は理屈抜きに好きな作品です。それからそれから「立たされている」、「怪しい立ち話」「往
来」の美しい映像を見ているような第一連、等々書きだしたら止まりません。
 謎をはらんだ表紙もいいですね。乾杯です。

■ふなきともこさん
 もっとも詩人・三田洋を感じる表題。身辺をとりまく悲をかろやかに舞踏させている。
 あなたのなかを歳月が過ぎていくのではありません
 あなたがもがきながら時をぬけていくのです
 人々はそういって迎えてくれます  (歳月考)

■岩佐なをさん 
一篇〜の重さを感じ、それが親しく思われもいたしました。「夜の椅子」は特に好きな作品です。

■鈴木漠さん
 エクリチュールの熟練と同時に文体の若々しさも感得しました。 

■小島きみ子さん
 三田洋詩集『悲しみの舞 あるいはギアの秘めごと』(思潮社)|後半に配置された作品に惹かれた。76P.「歳
月考」|モンゴルへ行きました//いつもより少し低い月がむかえてくれます//あなたのなかを歳月が過ぎていく
のではありません/あなたがもがきながら時を抜けていくのです/人々はそう言って迎えてくれます/わたくしは/
お辞儀をします//草原はどこまでもつづいている/過ちをくりかえしたり/片恋にうろついたり/ひきかえしたり迷
ったり潜ったり/横に逸れたり縮んだり/まっすぐ縦に流れる時など存在しません//

■日原正彦さん
御詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』を御恵投いただき、ありがとうございました。@)を読みながら、いの
ちというのはとてもはかないのだけれど、でもそれは頑丈な欠落、空無を芯に持ち、それを肯う、というような姿
勢を感じました。
A)では、それが死であって、それは生にはりついてその無根拠性を見せつけるのですが、ここでもそれを静か
に引き受ける態度が見えるような気がします。
B)ではもっと具体的な人間像が描かれますが、ここでは死は時間性の中へ逆光のように降り注ぐものとして意
識されますが、しかしその逆光を引き受けながら舞う,生の舞いが、悲の舞いなのでしょう。夢というのは多分そう
いう生と死の間で舞う悲の舞いのBGMなのでしょう。そんな感想を持ちました。

■田中裕子さん
この度はご詩集「悲の舞」をいただき、誠にありがとうございました。どのお作品も惹かれるものばかりでした。悲
しみとともにいつもやさしさがあるのはギアのおかげなのだろうと思いました。そして人はひとりでは生きているの
ではないと教えられました。ギアを操作するのは自分だけでなくきっと今ここにいない人だったりもするのかもしれ
ない、と。悲しみから道を開こうとするお作品に読み手も救われる思いがしました。拝読の機会を与えてくださりあ
りがとうございました。

■崔龍源さん
謹啓 御健勝のことと存じ上げます。このたびは貴重な御詩集「悲の舞」を御恵贈くださり、ありがとうございまし
た。 過ぎ去ってゆく時間と生きて来た分だけ広がってゆく空間とをつなぎ合わせる詩の数々。とぎすまされたこ
とばでつむがれる緊張感のある詩行が、ぼくの「いのちのすきま」をもうめてゆくようです。「悲の舞」「振り向き
方に」「往来」「他者のかおり」「美祢線晩秋列車」など、ぼくの好きな詩でした。敬具 P。S益々のご健筆お祈り
申し上げます。    謹白

■坂多慧子さん
軽やかな色の表紙、とても素敵です。お作品もユーモアがあってホントはうーんと考えるところわ、軽やかにスキ
ップされているみたいで、真っ白の紙が印象的です。「ギアの秘めごと」「振り向き方に」「立たされている」「相
克の崖」「バターチキンライス」「おとうと記」などが好きでした。立たされている夢ばかり見ているのは笑っちゃい
ました。それぞれ定番の夢があるんですね。美祢線はとってもなつかしく、厚狭駅でいつも乗り換えていました。

■神尾和寿さん 無駄のそがれた表現の中に、静かな重みを感ました。暖かな視線と、したたかな文明批評
も、とくに「2他者のかおり」に好きな御作が多かったです。

■松尾政則さん
「数字のお願い」「実存抄」「往来」「バターチキンライス」「歳月考」「帰郷」などの作品が好きでした。夢と、体験
的事実とがどこかで繋がっているような、そのことの不安に触れてしまったような、妙な感じがしました。「わた
くしのかたわれたち/どれがゆきなのかさまよいなのか/それもわからない/ただあたりには何もなく往来だけ
があって」「家にはあがれないので/砂のうえにかしこまっている」これらの詩行もたまりません。

■千木貢さん
三田洋の世界をたんのういたしました。これは私の好みなのですが、「歳月考」「歳月の窓」「ありふれた朝」なと
に惹かれました。

■佐川亜紀さん
「悲の舞」の抽象性と叙情性の結合が巧みと思いました。「中性子のかなしみ」「数字のお願い」など理性的な
表現と感情の表現の組み合わせも独特でおもしろく拝読いたしました。

■房内はるみさん
 この度は、御詩集賜りまして誠にありがとうございます。無意識の世界、生と死 心の底の名づけられない悲
しみ、故郷への想い等が伝わってまいりました。好きな御作は「悲の舞」「中性子のかなしみ」「数字のお願い」
「立たされている」「皮膚の触れ先」「遺伝子戦争」「氷上のバラ」「美祢線晩秋列車」「帰郷―青海島原形」「夜
の椅子」などでした。
■柳生じゅん子さん このたびは、ご詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をご恵贈くださいましてありがとう
ございました。どのお作品も同感、共感、胸にすっと届き、またひょいと現実を超える終わり方に、とても気持
ちが救われました。とくに「悲の舞」「ギアの秘めごと」「振り向き方に」「歳月の窓」「相克の崖」(とても深く、胸を
打たれました)「美祢線晩秋列車」「帰郷」(北九州で暮らしていましたので、青海島には、二回行ったことがあり
ます。ふる里とに帰るーあらためて、私の中にも発見がありました。)「おとうと記」胸にしみました、「夜の椅子」
私にも同じような歳月があり、。重なりました。すっと心に届くような作品を、私も書いていきたいなと、学ばされ
ました。

■富長覚梁さん
実りの秋となりました。過日には素晴らしい御詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をご恵投くださいまして
誠に有難く拝受いたしました。いろんな詩誌などでその都度御作は集中して拝読しておりますが、こうして詩集
にまとめられますときた一段と際立った印象が刻印されています。内省する目のゆきとどいた静謐な哀しみの溢
れる作品集であり、、またわが心情と日常の生を渾和させながら蘇生への意志をも秘め、そこに淡々としてしか
も深みのある表現を生み、これによって哀しみはその反作用の力を秘め、秘奥の心緒を掻き立てもする。いかに
も捻りのきいた作品集でございました。こうした御作の透明感、繊細な視座そして形而上学的な美観、全てが私
にとりましては全てが得難い教科書でございました。益益の御清硯とご健勝を心より念じあげます。

■中村吾郎さん (喜怒哀楽)を超えた上の(きわめて高い次元の「悲」であるのですね。「悲の舞」であるのですね、
その詩声(うたごえ)が、はるかに遠く近く響いてくるのを痛感しました。「悲の舞をおえたあとのかすかな他生の」
〜答えは見えず〜救われることもなく〜秘奥の朝を待つ〜おもわず感謝しながら きょうも 夜の椅子に腰をおろ
しているのですね。これまで詩集「グールドの朝」「デジタルの少年」「仮面のうしろ」とありますが、この「悲の舞」
のメインテーマは三田洋の毎日の中で「悲」という観念を超越した何者かを感じます。

■花潜幸さん
ご詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をお贈りいただき、ありがとうございました。
条理から投げ出され、〇〇

■田中健太郎さん、貴詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』を御恵送賜り誠にありがとうございました。大変
興味深く拝読いたしました。

■田中武さん 過日は詩集『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』をお贈り頂き有難うございました。以前とは微妙
にスタンスがかわっているようで新しい飛翔の谷間がほの見えて興味深く拝見いたしました。
■望月苑巳さん

■星野元一さん

■山本十四尾(花話会)さん

■石田義篤さん

■山本楡美子さん
秋らしくなりました。お元気でいらっしゃいますか。お礼が遅れてしまいましたが、御詩集『悲の舞――』ありがと
うございました。御誌「朝明」も読ませていただいて、「ギアの秘めごと」を鮮やかに思い出しました。内面の動き
をギアでとらえた力量を、改めて深く打たれました。「ありふれた朝」「立たされている」「怪しい立ち話」などにも
通じていて、内面を見つめる目に切実なものを感じ、打たれます。お礼のことばもたどたどしいものですが、これ
からの三田さんのご活躍、ご健筆をお祈りいたします。」

■瀬崎祐さんの本棚より
詩集「悲の舞 あるいはギアの秘めごと」 三田洋 (2018/08) 思潮社2018-10-15 19:15:40 | 詩集
 第9詩集か。少し堅い感触の用紙を用いた92頁に25編を収める。詩集タイトルは冒頭の2つの作品タイトルから
来ている。
 「歳月の窓」。それは小さな窓なのだろう。空と電線だけが見えているような窓だ。そんな窓のある部屋で「痛み
や幸いなど引き受けながら」、家族の営みがあり、歳月が流れたのだ。おそらくは貧しく慎ましい生活の歳月だっ
たのだろう。それゆえに、その窓のある部屋での歳月が愛おしいものとして振りかえられるのだろう。最終連は、

   やがて矩形の夕暮れがやってくると
   境界もなにもなくなって
   すべてが一体になるような
   そっと
   だれかが覗いてくる

 「相克の崖」。十九歳のとき、わたしは坂口君に誘われて絶壁の中腹に腰をかけていたのだ。高所恐怖症のわ
たしにとっては、そのときの恐怖感はときが経っても深まるばかりなのだ。そうなのだ、「あの時わたしは実は海
へ落下していたのではないかという懸念が消えない」のだ。いつからか落下したじぶんと落下しなかったじぶんと
が相克を続けるようになっていた。たとえば岐路にたたされ、その一方を選ぶ。「しかし実は捨てられた他方のじ
ぶんも/そのまま生き続けているのではないか。そのどちらもじぶんではないか。」これはSF小説でみられる多
次元宇宙の考え方に似ている。それは、この世界とは異なる世界が平行して存在し、そこには違う道を歩んだ自
分が存在しているというもの。しかし、この作品では同じこの世界に夥しいじぶんがいるというのだ。どちらがこの
世界にふさわしいじぶんなのか、迷い続けなくてはならないのだろうか。

   もしかしたら坂口君はそれとは異なる何か真実のようなものを知り
   抜いているのかもしれない。彼を捜そうとしないのはそのせいなの
   か。もしかしたら、わたしはいまもあの崖を落下し続けているので
   はないか。

 最後の1行の鋭いイメージがいつまでも残る作品。

■谷口修三さん
 三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』の表題作になっている「悲の舞」。
悲は斜めうしろから
すくうのがよい
真正面からでは
身がまえられてしまう

 「悲しみ」と書かずに「悲」と書く。文字で読めば「悲しみ」とすぐにわかるが、声で聞いたときはわからないかも
しれない。しかし「悲」を「悲しみ」と理解していいのかどうか。すこしなやましい。
 「悲しみ」に「斜めうしろ」はあるか。「悲しみ」は「すくう」ことができるか。
 「悲」は「悲しみ」に似ているかもしれないが、「悲しみ」ではない。それは三田の認識によって、特別な形をあ
たえられた何かである。
 「悲」は「悲しみ」であって、「斜めうしろ」や「すくう」は、「比喩」であると考えることもできるが、「斜めうしろ」や
「すくう」が現実であり、「悲」が比喩であるということもありうる。
 一連目を、三田は、こう言いなおす。

悲は日常の爪先ではなく
白すぎる紙の指で
呼吸をほどこすように
すくうのがよい

 「爪先」は「爪の先」だが、私は「足の爪先」を思い出す。手の「爪の先」とは思わなかった。だから、直後に「白
すぎる紙の指」が出てきたときは、とても驚いた。
 それとも「悲は日常の爪先ではなく」は「悲は日常の爪先ではない」という一行が、ことばとして独立せずに、
文章のなかになだれていったのだろうか。
 そうではなくて、やはり一連目の「すくう」が言いなおされているのだと思う。
 「呼吸をほどこすように」は、悲しみで息をつまらせているものの、息が再び動き始めるように、寄り添うように、
くらいだろう。
 「すくう」は、このとき「掬う」ではなく「救う」にかわる。「救い出す」ことを「掬う」という一言で言っている。「悲し
み」を「悲」という一文字であらわすように。
 そして三連目。

太古から伝わる悲の器のように
やさしく抱え込みながら
静かな指のかたちで

 「すくう(救い出す)」という動詞は、ここでは省略され「やさしく包み込む」という動詞が代わりに動いている。「す
くう(救い出す)」ということは「包み込む」ことである。
 さて。
 そうすると「悲(しみ)」というものは、自分のなかにあるのではなく、自分の外にあるものなのか。
 他人の「悲(しみ)」を「すくう」と言っているのか。いや、そうは読むことができない。三田は自分の「悲(しみ)」
と向き合っているとしか読むことができない。ことばは外へ向かって動くというよりも、内へ内へと動いている。

すくってもすくっても
こぼれてしまうけれど
傷ついたいのちのすきまを
ていねいにふさぐように

 「すくう」は「ふさぐ」と言いなおされている。「ふさぐ」は「包み込む」を言いなおしたものでもある。自分の肉体
から「こぼれる」「悲(しみ)」。感情とは、いつでも「肉体」から出ていってしまうものだ。しかも出て行くと、さらに
感情を誘い出すのだ。だからこそ、こぼれないように「ふさぐ」。
 三連目の「やさしく」は「ていねいに」と言いなおされている。
 このあと詩は、こう展開する。

だれもいない奥の間の
ひっそり開かれる戸から
陽がさしてくればなおよい

そのとき
悲はひかりの粒子にくるまれて
必然のつれあいのように
すくいのみちをめざしながら
秘奥の悲の舞を
ひそかに演じるのでしょうか
だれもいない開演前の舞台のように

 うーむ。
 「奥の間」か。これは日本の家の構造をあらわしているのだが、それはそのまま「物理」の「構造」へとつなが
っていく。「ひかり」「粒子」。「粒子」は「分子」「原子」「中性子」などのことばにつながることばだ。
 三田のことばの動きは、どこかで「科学」と通じている。展開の仕方が「論理」を感じさせる。
 だから、この最終連が三田の書きたかったことなのだとわかるのだが。
 「悲をすくう」というときの「主語」は「人間(三田)」だったのに、最終連では「人間」が消え、「悲」が主人公に
なって舞っている。
 悲(しみ)が舞うことが、舞わせることが悲(しみ)をすくうことか。
 うーむ。
 私は、「悲(しみ)」が主人公にならずに、人間が主人公のままのところまでの方が好きだなあ。

 他の作品もそうなのだが、「論理」が勝手に動き始める。論理とはもともとそういうものなのかもしれないけれど、
その動きすぎは、言いなおすと「書きすぎ」ということになる。論理が自律運動をはじめる前にことばをたたききっ
た方が、おもしろいのでは、と思う。
 「結論」は詩人が書くのではなく、読者が書くもの。言い換えると、詩は読者が引き継ぐもの。「結論」を書かれ
てしまうと、その瞬間、手元に引き寄せたものか、ぱっと離れていく。
 金魚すくいで、金魚が紙を破って逃げていくみたい。あ、逃がしてしまった。あと少しだったのに。悔しい、という
感じが残ってしまうのににているなあ。

■川島洋さん
ご詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をいただき、ありがとうございました。詩集のテーマと言えるのかわ
かりませんが、生の手触りうすさ、記憶のあいまいさ、つまるところこの世界の不確かさというもの―の困惑―
そうした感覚もとくは感情が、多くの作品の底に流れているように感じました。時に鮮明で鋭い形象や認識に
ハットさせられつつ、どこか捉えづらい感じのつきまとう三田さんの作品の特質は不確かなもの(こと?事象?)
へ常に向けられている意識からもたらされてくるのかもしれません。「悲の舞」「彼岸会」「歳月の窓」「はるかな
涙」「バターチキンライス」など心打たれる好編でした。今後ますますのご活躍をお祈りしています。
■北原千代さん
このたびは、新詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をお送りくださいましてありがとうございました。御詩集
の中でもっとも印象的に感動しましたのは、「他生のかおり」です。第一連の感覚鮮やかに、ずっと打たれ続けて
います。御詩集のなかにしずかに漂う生のあわいの感情、それゆえに疼きつつ、やさしく生の時間は過ぎてゆく
のだと思わせていただきました。

■中田紀子さん
「中性子のかなしみ」。万物は原子核から成っていて、その核に中性子が存在していることは周知の事実であ
る。三田氏は(中性子イコール意識である/不安定で十五分で消滅するという)物理学に括目する。(――明け方
/左脚の/小指のあたりに/接触感があってる目を覚ま)した詩人は、「こちら中性子です」という声を聴くそし
て、中性子の「儚い意識とは何だろう/たとえば躓いた小石の意識とは何だろう/小指の意識とは何だろう」
と問いを重ね、日々の感覚的体験に中性子の意識、感情の介入があることに気づかされていく。人の孤独や様
々な恐怖など「不安まみれの/この個体の中に棲まわされ/その小さく儚い生涯を/さらに怯えさせ」られ生を
終える中性子に詩人は同情する。故に再修練で「愛しい中性子たち/無理しないで/他の個体へでも大木の
幹にでも/出て行っていいよ」と呼びかける。物理を超えた詩人の繊細でやさしい想像力に惹かれる。

■海東ワラさん
秋が深くなりました。いかがお過ごしでしょうすか。御詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』をお送り下さい
ましてありがとうございました。ひとつひとつの詩篇の中の、生まれては儚く消えるものを追うように読ませてい
ただいています。静かな言葉の行から行への
自然な渡りが風や光や影をもたらして下さいます。早くお礼を申しあげたかったのですが、しばらく事情が重な
りまして、詩の活動が思うに任せず遅くなってしまい、大変失礼いたしました。感謝申しあげます。

■寺田美由記さん
御高著『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』御恵贈賜り感謝いたしております。事象を凝視されます鋭い視点
と確かな表現の力に学ばせていただいております。

■北岡善寿さん(ゆすりか)

■ささきひろしさん
この度はご高著『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』をご恵贈頂きまして有難うございました。久しぶりに本格
的に理知的な現代詩を堪能させて頂きました。すばらしい作品ばかりです。中でも特に強く印象に残った作品
は、「悲の舞」「ギアの秘めごと」「中性子のかなしみ」「方向音痴夢枕」「怪しい立話」「往来」「他生のかおり」
「悲の舞を終えたあとの」「相克の崖」「皮膚の触れ先」「はるかな涙」「帰郷」「おとうと記」「夜の椅子」です。
じっくり読ませて頂きます。

■青山かつ子さん
御詩集、ありがとうございました。どのお作品からも三田さんの情感の豊かさが伝わってきまして、読み応え十
分でした。「おとうと記」はとりわけ心に残る一篇で胸に迫るものがありました。淡々と描かれているからこそ哀
しみ、弟さんへの思いが伝わってきました。おそくなって相スミマセン!

■谷口典子さん
『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』をありがとうございました。「時間と空間のあわいのかなた」とありましたよ
うに、「ふるえる」思いで拝読させて頂きました。読み進んでいきまして、V はるかな涙に至り、「歳月考」「美
祢線晩秋列車」「おとうと記」にはジーンと心にひびき、その思いに涙がにし゜んでまいりました。私は三田様に
は会の折、ご挨拶をさせて頂いただけで、あまり深くお話をさせて頂いたことはありませんが、母(堀内幸枝)か
らはお名前をよく伺っておりました。とてもすばらしい詩をお書きになると、とても好きな詩だと、私は母とは別の
世界を亜湾でやりましたので、この言葉だけが今も耳に残っております、

■伊藤芳博さん
御『悲の舞』をありがとうございました。#゚〉とは何か。ギア゜とは何かを考えます。振り向き方゜に
三田さんの独自の視線があるように存じました。おん礼まで。・゜

■浜エ順子さん
拝啓 『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』をありがとうございました。お返事おそくなり、恐縮です。人間の悲しみ
や怖さの奥底をさぐっていくような詩群。なかでも「妖しい立ち話」が特に印象的でした。今後ともよろしくお願いし
ます。

■ 新井啓子さん
御高著『悲の舞』をお送り頂き御礼申し上げます。充実したお仕事に感服致しました。ご健筆をお祈り申し上げます。

■古賀大助さん
『悲の舞・あるいはギアの秘めごと』をゆっくり味わいました。やわらかいことばづかいに惹かれます。しなやかな視
点に導かれ、豊かな気持ちに包まれました。とりわけ。「中性子のかなしみ」「ありふれた朝」「相克の崖」にめをみ
はりました。「時間のような空間がひろがっている」「積み重ねたきのうと同じ朝をむかえるためには/どのような失
意を隠さなければならないのだろう」「歳月のなかで体験と夢想との境界があいまいになるらしい」それから「美祢
線晩秋列車」から「夜の椅子」までの作品は、発酵した時間がにじみ出るようで、少し沈鬱な気持ちになりました。
ありがとうございました。2019、4.16










     















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