新刊 三田洋新詩集
    三田洋詩集『悲の舞−あるいはギアの秘めごと』思潮社 2400円
                                装丁はフランス装。刊行2018年8月30日

        帯より
      悲はひかりの粒子にくるまれて
      必然のつれあいのように
      すくいのみちをめざしながら
      秘奥の悲の舞を
      ひそかに演じるのでしょうか

 デジタルの世界の傷口に舞う悲の欠片を、いのちのすきまにそっと抱く。
 時間と空間のあわいのかなた――辿りついたはじまりの秘奥の景色25篇。
  (思潮社ホームページより)
                            
   目次より
 @章 悲の舞―あるいはギアの秘めごと 
   悲の舞 ギアの秘めごと 中性子のかなしみ 数字のお願いなど  

 A章 他生のかおり
   往来 他生のかおり 歳月の窓 皮膚の触れ先など

 B章 はるかな涙
   はるかな涙 美祢線晩秋列車 帰郷・青海島原景 おとうと記など
   
   
             表紙                    装幀 フランス製本





  ■「現代詩手帖」11月号「詩書月評」 より

       


  ■「悲の舞」が紹介されました。

  「問い続ける言葉の彼方に」  峯澤典子

  三田洋『悲の舞―あるいはギアの秘めごと』も何かを問い続ける一冊だろう。本書は三章に分かれているが、
  掴みどころのない「悲」の気配が全篇の底には沈んでいる。自らの「他生」を透視したような俯瞰的で眩惑的
 な情景が現れる第二章も、実際の帰郷時の風景や家族、そして新聞記事など、現実の生活から切り出したモ
 チーフを具体的な心情の輪郭を辿りつつ描いた三章もそれぞれに魅力的だが、もっとも惹かれたのは表題詩を
 含む第一章だ。
  ここでは、自分の内と外に漂う「悲」と実体のないものがどこからくるのかと、話者は空に話しかけるように問
 い続ける。自分が存在することの疑わしさが言葉以前にあり、居場所も行き先も正体も特定できない話者から
 発せられる言葉もつねに現実と夢想の溶け合う縁に立たされている。そして言葉を重ねるほどに
 「わからない ことだけがはっきりしていて/空間が怪しくひろがっていくばかりなのだ」(「怪しい立ち話」)
 
 という。つまり諸篇の言葉は、自らの枠内にわからないことの膨らみに応じて触知の領域を広げようとしてい
 るのだ。

  悲は斜めうしろから
  すくうのがよい
  真正面からでは
  身がまえられてしまう
   (‥‥)
  すくってもすくっても
  こぼれてしまうけれど
  傷ついたいのち
  のすきまを
  ていねいにふさぐよう
  だれもいない奥の間の
  ひっそり開かれる戸から
  陽がさしてくればなおよい
  そのとき
  悲はひかりの粒子にくるまれて
  必然のつれあいのように
  すくいのみちをめざしながら
  秘奥の悲の舞を
  ひそかに演じるのでしょうか
  だれもいない開演前の舞台のように。 
                (「悲の舞」部分)

  自身も虚像のような話者の淡い域の流れを繰り返し引っ掻く「悲」の一文字。「ひ」という摩擦音は、外界へ
  投げられた密かな抵抗の小石の悲鳴のようだ。固有のメッセージに還元される前の物質としての「悲」の手
  触りや温みが、本書には珍しい鉱石のようにちりばめられている。




 ■『詩と思想』 2019年7月号より
 詩誌評 我は思われた。故に我あり。 斎藤菜穂子
 「橋」第156号
 三田洋詩集『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』 草薙定

 一読目、読み進めるごとに現れる次の行の真新しさに心が躍った。二読目。私の脚力ではまたぎきれない飛び
 石がいくつか現れた。潔くあきらめ迂回した。三読目、足元は見ないで飛び石の布石の流れを追った。巻頭の詩
 を見てみたい。〈悲は斜めうしろからすくうのがよい/真正面からでは身がまえられてしまう/悲は日常の爪先で
 はなく/白すぎる紙の指で 呼吸をほどこすようにすくうのがよい/太古から伝える悲の器のように/やさしく抱え
 こみながら/静かな指のかたちで/すくってもすくっても こぼれてしまうけれど/傷ついたいのちのすきまをてい
 ねいにふさぐよう/だれもいない奥の間の/ひっそり開かれる戸から陽がさしてくればなおよい/そのとき 悲は
 ひかりの粒子にくるまれて/必然のつれあいのように/すくいのみちをめざしながら/秘奥の悲の舞をひそかに
 演じるのでしょうか/だれもいない開演前の舞台のように(全文)
 





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